融通と妥協

何事にもけじめをつけて取り組むことは是か。最近、とても正義感の強い人(という日本語が正しいかわからないけれど。)を見かけるのでふと思った。
結論からすれば、折り合いをつけていかなければイライラが溜まるだけで、結局本人が損をすることになると思う。もっとも、そこで妥協できないから苦しいのだろうけれども。

「自分で考え行動し、物事の価値を考える。」という能力が高い人ほど、そういう傾向にあるのかもしれない。そういう人は考えの及ぶ範疇が広いし、普段の会話のなかでも発言の理由を汲み取る能力に長けている。一言で「頭の回転がはやい」人

発言に責任をもつのはもちろん、常に感情は発言に現れていることを意識しておくべき。全く思いもしないことは言えない。白々しい嘘をつく、とかいうレベルではなく、そもそも思いつかないから。

そういう人と関わるの場合、たとえ自分に否があったとしても、当然ながら口先だけの謝罪では済まないので、相手の主張が確かに論理的で正論であっても認められず、結果、逃げるしかないとうことになる。つまり関わりあえない。

残念ながら、いまの私が見てきている狭い世界の範囲に限っては、あるところで折り合いをつけて、無意識であれ、意識的であれ、衝突を避けている人の方が圧倒的に多い。

それはとてもやるせないし、落胆するのだけれど、それも仕方がないと思って折り合いをつける。辟易することが多くても、それで平和に世界がまわっている(ようにみえる)のならば良しとする。

私もまだ若輩なのでわからないけれど、きっと、歳を重ねていったときに「カドがとれた、まるくなったね」と言われるようなオジサンたちはそういう人なんじゃないかな。

個人を特定する形での発言をするのはよくないけれど、彼と彼はとても似ている。ので、私は彼女と話をしてみたい。
ここまでとても偉そうに書いているけれど、私はそんなに図々しいことを言える立場ではない。